祖母は77歳になった。物の無い時代に生まれ、戦時中を生き抜き、結婚後祖父と二人で小さな豆腐屋を営んできた。小学生だった僕は帰りによく店に寄った。祖父はいつも調子はずれな歌を唄いながら油揚げを揚げていた。そんな祖父が急な病で亡くなり、祖母は店を閉めた。その日のことは今でもよく覚えている、閉まっている筈の店が開いていた。恐る恐る近づいてみると祖母が油揚げを揚げている。そこには『アカシヤの花の下で〜』いつも祖父が唄っていた曲が流れていた。祖母は愛しむように歌を口ずさんでいた。僕に気付くと嬉しそうに駆け寄ってきて『ばぁちゃんここにおったら毎日トモの顔見れるで頑張るよ』と笑った。それから祖母は裕次郎を唄いながら一人で店を守り、年を取り引退した。祖母の昭和を支えたものは祖父が唄った調子はずれの裕次郎。今でも時々仏壇の前で口ずさんでは『やっぱり私の方がうまいわ』とおどけてみせる。遺影の祖父が笑っていた。
終戦となり、出征先の中国から、父が船に乗って、舞鶴港に帰還したのは、昭和21年の春のことでした。ちょうどその頃、流行(はや)っていたのが、田端義夫の「かえり船」でした。その曲を聞いて、父は涙が止まらなかったそうです。
故国に生還できた歓喜(よろこび)と、大陸での筆舌に尽くしがたい苦難、そして無謀な戦争のせいで、たくさんの同胞を失った怒りや悲しみの感情が去来して、涙を禁じ得なかったのです。
そうした感情は、終戦から数十年経(た)っても消えることがありませんでした。ときおり、テレビやラジオから、「かえり船」が流れて来ると、たちまち目と声を潤ませて、一緒に歌い出すほどでした。亡くなる前日も、枕頭で私が「かえり船」を歌ってやると苦しい息を吐きながらも、一緒に歌い始めたではありませんか。「かえり船」によって、父がどれほど慰められ、励まされたかを思うと、父にとって「昭和のヒーロー」は、まぎれもなく田端義夫だったにちがいありません。
昭和41年、僕が小学校一年生のとき、ある朝、担任の先生がこんなお話をした。
「私たちはみんなお百姓さんのお世話になっています。みんなもお百姓さんが一所懸命働いて作ったお米や野菜を食べて大きくなり、小学校に入学しました。みんながお父さん、お母さんの次にお世話になっているのは、日本じゅうのお百姓さんです。ですから、今度どこかで働いているお百姓さんに会ったら、『お百姓さん、ありがとう』と言いましょう」
それから僕は田んぼや畑で、また当時、家の近くに多かったレンコン畑で、お百姓さんに会うたびに立ち止まって「お百姓さん、ありがとう」と言うようになった。学年があがるにつれ、照れくさくなってその習慣は捨ててしまったが、お百姓さんは確かに幼い心に刻み込まれた、僕の「昭和のヒーロー」だった。
それは体の隅々にある毛細血管が開いていくようなトランペットの響きであった。東京国立競技場から深川の町に、日本中に、まだその存在さえ知らぬ世界の国々に届いたであろうファンファーレ。白黒テレビの前に集まった近所のおじちゃんやおばちゃんは、律儀にもきちんと正座をし、固唾を呑んで東京オリンピックの開会式に見入っていた。戦後から大人達が踏ん張って生きてきた証しが画面から溢れていた。私にとってのヒーロー、ヒロインは油にまみれ汗を流し、慎ましくも逞しく生きた町の中のおじちゃんおばちゃん達である。あの東京オリンピック・ファンファーレは、そんな庶民の心意気を高らかに称えていた。この耳で聞いた響きは、紅白の大きな玉を日本人の手でヨイショと押した音と重なり、世界へ一歩あゆみ出た、地べたを行く確かな音に聞こえたような気がした。玄関に掲げた日の丸の美しさは、今でもくっきりと覚えている。晴れやかな九才の秋であった。
夕方、銭湯に行って下駄箱を選ぶのはきまって16番だった。男の子たちにとって巨人軍16番の川上哲治はあこがれの的で、その後の長嶋や王、あるいは、いまの松井、イチローとはちょっとちがう、あこがれというよりむしろ神様のような大きな存在だった。友だちと連れ立って銭湯に行くこときは、駆け足で下駄箱までの一番乗りを競ったもので、ふさがっているとがっかりしたものだった。そんなときは、必要もないのに傘箱(いまでもあるのだろうか)の16番の木札をとってなぐさめにしたものだった。その習性は半世紀以上たったいまも記憶の底に残っているようで、靴を脱いで上がる居酒屋などに行ったときなど、ふと気づくと16番を探していることがある。
昭和初期から父は、北海道中部の小学校の校長でした。昭和13年私は小学4年生で、担任は女学校を出たばかりのやさしい先生。と、ある土曜日、少し離れた町の先生のお家に私も一泊、翌日二人で映画館へ。上演中の作品は当時一世を風靡していた、「愛染かつら」だったのです。内容はともかく、ヒロインの”田中絹代”さんの愁いを含んだ表情や佇まいがあたりの光景と相俟って、一段と美しく、幼心にもしみじみとした思いがありました。先生も一人では一寸、で子供の私でもお相手に。その後たびたび私の口から「花も嵐もふみ越えて」が飛び出し、父に(小学生がそんな歌はいかん)と叱られたのも懐かしい。・・・戦中戦後の貧苦の時を挟みながらも、楽しく充実した年月を過ごせた昭和の御世に感謝です。
「私、大きくなったら寅さんのお嫁さんになる」、「バカね、あんな人親戚にいたら大変よ」幼い頃の母との会話。あの頃の私にとって、寅さんは、面白くて人気者、困った時にはすぐに助けに来てくれるヒーローだった。人は何故、風来坊の彼に惹かれるのだろう?答えは簡単。あんな人はいないからだ。今の世の中、彼のように利害を問わず親身になって人と関わる人間がいるだろうか?疑問符がつく。いないからこそ、いて欲しい。失ったものへの郷愁。それは昭和という時代にも通じていく。あの時代は寅さんのような人が町々にいて、そこにあった人情や愛、夢や希望の混ざった『日本人が輝いていた時代』。失われたそれらに触れたくて今でも多くの人々が寅さんを慕い、昭和を懐かしむのだろう。そして大人になった私が嫁いだ相手はバカ正直で短気な人情家。そう、子供の頃の夢の通り、寅さんのような人なのでした。
私にとっての「昭和のヒーロー」は大宅壮一先生である。大宅先生ほど昭和の時代を見事に切り取り、大衆の心を代弁したマスコミ人はいない。毒舌家とも評されたが、その言動はヒューマニズムに溢れ、私たちのモヤモヤを痛快なまでに吹っ飛ばしてくれた。日本の精神文化を支える土台ともなった。昭和44年、私は「大宅壮一東京マスコミ塾」で学んだ。面接の時、先生から「マスコミの仕事は苦労のわりに、金にならんぞ」と言われ、授業では、「マスコミ的人間の条件は努力だけでなく、その人の資質にある」と教えられた。草柳大蔵先生が塾頭で、一流講師陣が揃っていた。大宅先生は昭和の松下村塾のようなものをつくり、人材を世に送り出そうとしたのだ。大宅スピリットは今、先生の薫陶を受けた小説家や評論家などに引き継がれている。私はPRや政治関係の仕事に携わってきたが、37年間のサラリーマン人生を力強く支え続けてくれたのは、やはり大宅先生の教えだった。
昭和44年8月、実家の菓子店に三島さんがマドレーヌを買いにいらした。茶の間から覗くと角刈りのニコニコした三島さんがそこにいた!もう私の心臓は飛び出しそうだった。大好きな劇作家、三島由紀夫。思い切って話してみたい、でも無視されたらどうしよう。ようやく胸のドキドキを抑えて店に出ると、「三島さん」と話しかけた。秋の文化祭で「愛の不安」を上演する事、演技に悩んでいる事を。ところが三島さんは喜んでくれた。
「あなたは何も悩まなくていいんですよ。高校生らしくのびのびとおやりなさい。頭で考えないで心のおもむくままに。大丈夫ですよ。来年また来ますから感想をお聞きしましょう。楽しみにしていますよ」と励ましてくれたのだ。翌年の夏、約束通り三島さんは訪ねてくれて、「お嬢さんは?」と聞いてくれたのに、わずかな時間差で会う事ができなかった。
38年前の約束は永遠の宿題になった。そして三島さんは私の心に永遠に生き続ける。
小野田寛郎元陸軍少尉がヒーローです。フィリピンのルバング島で戦後二十数年在留し不撓不屈の精神で戦後を生き抜き、帰国後にはブラジルに渡り牧場経営に携わり、日本人に感銘を与えた人物です。私の父も陸士卒の職業軍人として従軍し戦後は農業を主として男としての矜持を持って過ごしています。小野田少尉が発見された時に父との会話の中で、陸軍将校としての生き方を聞いたことが懐かしい思い出です。軍人は捕虜にはなるなと厳しく教育されていました。確か小野田少尉の父母は捕虜になった時には自決することを教えたと聞いております。昭和時代は戦前は戦争の時代でもありましたが、厳しい中で生き抜いた先人の一人として小野田少尉の印象が深いものがあります。昨年金沢の地元の大学で小野田少尉の講演を聴きました。背筋をピシッと伸ばして張りのある声で講演されていました。八十歳代には見えない精神と心を持って話されました。人間として絶体絶命の状況下にさらされても、命ある限り生き抜いた姿は尊いことです。昭和のヒーローの一人です。






